イップスの治療 ~競技人生、崖っぷちからの生還~

プロ野球は、いうまでもありませんが、超人の集まる世界です。
私たちは、プロ野球選手の信じがたいプレーの数々に驚き酔いしれ、激しい”つばぜり合い”の局面を固唾をのんで見守ります。
しかし特別なプレーの場面は、全体を通してみるとそう多くはありません。
ゴロ(もちろんそれらは簡単なものばかりではない)を内野手が粛々とさばく、大きなフライを悠々落下点に入りグラブに収めるなどの場面では、そう興奮を伴うわけではありません。
しかし、そこでショートが何でもないように見えるゴロを取り、ファーストに向けてプロらしからぬとんでもないボールを投げてしまったなら・・これはむしろ驚きです。
それも、これまで名手と呼ばれたプロ中のプロにそのようなことが起きたなら、ちょっとした事件です。
みんな好奇の目で彼を注視するようになるでしょう。
そして、そのようなことが2度、3度と起きることがままあります。
それどころか、延々繰り返されていく・・
一体彼の中で何が起きているのか。
見ている私たちも理解不能なことですが、実は彼自身も自らのうちで起きた変化の理由が究明できず、激しく動揺しているのです。
もちろん名手と言われるからには、これまで目を見張るようなファインプレーもたくさん見せてきたわけですが、
それ以上に何千回もの平凡なゴロ、際どいゴロを難なくさばき、驚異的な守備率(エラーをほとんどしない)を保持してきたわけです。
この堅実な守備は、一連の流麗な動作に裏打ちされたものです。
天才である彼は、プレーのかたちを”からだで覚えている”。
ボールを取る動作・投げる動作、それぞれについてほとんど言語を用いて説明することはできませんし、そもそもその必要を感じたこともありません。
精妙かつ巧緻なこのプレーを説明するために、おそらく1万語を用いても、語り尽くすことはできないでしょう。
もし、このプレーの流れのはしに、何らかの小さな乱気流が生じたならば、
彼という飛行機はもんどりを打って”墜落”してしまうのです。
そしてひとたび”墜落”を経験すると、どのように調整すれば”墜落”を免れるか、懸命に考えるようになり、
さらに動作はぎこちなくなり、どんどん失敗が重なります。
からだが無意識に行ってきた動作の緊急コントロールのため、いびつに言葉と意識が介入することにより、それがさらに混乱を招き、まるで奈落に落ちて行くように、操縦不能の状態に陥ってしまう。
この奈落から、足掻いてでも這い出すことができればいいですが、
ついにここから這い出ることが叶わず、不完全燃焼のままグラウンドを去った選手が、実は数知れぬほどいるのです。
この”小さな乱気流”が引き起こし、彼を奈落に突き落とした悪魔の名を「イップス」と呼びます。

先のイップスは、「送球イップス」と呼ばれるものですが、イップスはこれだけに限定されません。
野球の話でいうなら、バッテイングなどでも当てはまってきます。
バッターは常に理想のヒットやホームランを打つために、理想のフォームを模索しています。
仮にかつてないほど会心の当たりを放てたら、その時のフォームを決して忘れまいとして、体に刻みつけるべく、何度も素振りを繰り返し、イメージ固めをしようとします。
そのことにより、するりと自然に行えたスイングが意識過剰となって、かえってぎこちなさを呼び込むことになる場合があります。
また逆に、理想とするフォームとの若干のズレに違和感を感じ、その身体感覚を修正するため躍起になることもあるでしょう。
プロ野球選手でもよく、フォームがどんどん変わっていく選手がいますが、あれは余裕のあまり「たまにはこんなフォームでも試してみようか」という好奇心から引き出された変化というよりは、むしろ先に述べた違和感の修正のため止むにやまれず変更を重ねていることの方が多いのです。
そしてこの切実さが皮肉なことに、イップスにはまり込む誘因となることも少なくないのです。
プロの選手は、自らの不調も相手に悟られてはそこから付け込むスキを与えることになりますから、普段涼しい顔をしてプレーしていますが、内心は不安でいっぱい、人目につかぬところで足掻いています。
言ってみれば、日常が「小さなイップス」の連続、そこから本格的なイップスに陥らぬため、スイスイ水面を泳ぐあひるが水面下で激しく足を動かしているがごとく、苦闘の連続なわけです。
プロ選手は、もともと天才的な資質をもつ人々ですが、そのような人々が集まる場所では、それぞれが持つ資質もそれほど差別化できるものではなくなり、微細な優劣の差が勝敗を分ける熾烈な競争の連続となります。
そのため、どんな天才プレーヤーも努力を惜しみません。
天賦の才にさらに少しずつでも上積みを増やすためには、一点の妥協も許さぬ完璧主義でなくてはならないのですが、実はここに落とし穴があります。
このようなタイプの人こそ、イップスになりやすいのです。
すなわち、皆から理想として崇められるスタープレーヤーのすぐ隣にこそ、イップスが大きな口を開けて待っている。
完璧主義は、諸刃の剣なのです。

ところで、イップスという言葉を最初に用いたのは、1930年代に活躍したプロゴルファーのトミー・アーマーです。
彼は1967年に書いた『ABS’s of GOLF』の中で、自分を引退に導いたのは、試合でパットを沈めるときに突然襲うこのイップスのせいであることを告白しています。
最初はゴルファーのパッティングに限定して使われていたこの言葉ですが、今では競技を越えて、あまねく知れ渡るようになりました。
野球・テニス・サッカー・バスケットボール・バレーボール・卓球・バトミントン・陸上競技・スキー・アイススケート・射撃・弓道・アーチェリー・体操など、ともかくその競技において極限を目指すプレーヤーには、常にイップスに陥るリスクがついて回ります。

また、「職業性クランプ(けいれん)」と呼ばれるものがあります。
この名称はみなさんのあまり聞き慣れないものでしょうが、精神医学の分野では古くから問題にされてきたものです。
極限の緊張状態において、体が強ばったり(硬直型)、小刻みに震えたり(振戦型)、まったく体が動かなくなったり(麻痺型)、体がねじれるなどして異常な姿勢が固着したり(ジストニア型)など、いろいろな発現形式があります。
代表的な職業として、音楽家・外科医・調理師・美容師など微細な手の動きが求められ、その巧拙が結果を大きく左右するようなものが挙げられます。
イップスはすなわち、「スポーツマン(ウーマン)の職業性クランプ」と捉えることができます。
そのため、これまで精神医学が培ってきた職業性クランプに対する治療法を応用・発展させることで、イップスに対峙することが可能となります。
それでは、職業性クランプとはどのようなタイプの人に起こりやすいか。
それは真面目な努力家、一点の妥協も許さぬ完璧志向の持ち主、すなわち強迫性パーソナリティです。
職業性クランプのなかで、最もよく見られる症状は何か。
それは「書痙(しょけい)」と呼ばれるものです。
普段は体の硬直や震えがないのに、ある状況(例えば、人前で自分の名前を書かねばならないときなど)になると、体の自由が利かなくなり、それをコントロールしようと焦れば焦るほど、体の硬直や震えがますます激しいものとなっていく。
これは、特別な職業の方のみならず、一般の方においても意外に多く認められるものです。
この症状が出現するとき、「自分の体じゃないみたい」「勝手に体が踊り出すのです」「体からこころが遊離している」などといった感想が聞かれますが、これは精神医学的には「離人感」といいます。
こういった特徴は、イップスのそれと酷似しています。

イップスの治療についてですが、これは「強迫観念(完璧志向)の緩和(ゆるめること)」、これに尽きます。
ひとことでいえば簡単ですが、これは容易ではありません。
というのも、自らの信じる道を突き進んできた結果、一定の成功も収めてきているからです。
自らを俯瞰・客観視し、冷めた目で突き放してみる、これがこのような人々にとり、どれほど勇気を要することか。
しかし、大げさに聞こえるかもしれませんが、このような「人生の旋回」に踏み切ることしか、窮状を抜け出す方法はないのです。
そのため、その勇気を支えるため、助力する専門家の存在が必要になります。
それが精神科医や臨床心理士です。
心理カウンセリングのなかで、じっくり時間をかけてそれを行ってゆきます。
また、精神科のある種の薬が、イップスや職業性クランプの症状改善に大きく寄与しうることも記しておかなくてはなりません。(強迫に効く薬は、みなさんの想像以上に多くあるのです)
イップスに苦しむ方は、スポーツマンであり、ドーピングに抵触することがあってはなりません。
そのような危険な薬は丁寧に排除し、本当に楽をもたらしうる薬だけをチョイスし、細やかに増減させ、体へのささやかな響きに耳を傾けていく。依存性のある薬も極力使わない。
これが遠回りであっても、一番安全で確実な薬の投与・服用法であると考えています。
薬が嫌いな方に無理強いすることはありませんが、本当に追い詰められた方・切実な方であるなら、精神科医として最善の処方薬の提案をさせていただくこともできるでしょう。

いかがでしょう。
ここにあるイップス解説に強くうなづかれ、こういったイップス治療に関心をもち、是非取り組んでみたいとお考えの方は、当院での初診予約をお奨めします。
できる限りのサポートをさせていただきます。
(プロ・アマ問いません。
野球を例に挙げましたが、もちろん野球選手に限定しません。
またイップスのみならず、音楽家・外科医・調理師・美容師などの職業性クランプの治療も行っています)

熊木徹夫
あいち熊木クリニック<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>
TEL: 0561-75-5707 )

追伸:イップス克服はたしかに遠い道のりです。
ただ、まったく乗り切れぬほどの困難な道ではない。
みなさんはすでに十分な技術があるのですから、また歯車ががっちり噛めば、しっかり回り出します。
そのときまでの辛抱です。
そして、イップス克服を果たしえたあなたは、必ずいいコーチになれます。
自ら人生の苦労を乗り越えた人が、同じ道行きに難渋する後進のすばらしい助っ人になれるという意味では、スポーツマンも臨床家も同じでしょうね。

<※参考>

『トンネルに入りゆく恐怖』 (「パニック障害」についての臨床相談)


それは「拒食症」ではなくて、「嘔吐恐怖症」です ~嘔吐恐怖症、その原因と治療~

『体震わす電車運転士』 (「強迫神経症」についての臨床相談)

「もっと“だろう運転”しなくては」  ~強迫神経症者が抱える安全運転のジレンマ~


「セロクエル錠(クエチアピンフマル酸塩)で、 下痢型IBS(過敏性腸症候群)の症状が消えた」 という”ももさん”に対する回答 ・・(※IBS(過敏性腸症候群)についての、精神科薬物・漢方薬の小解説)


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