服用する根拠・処方する根拠(論文「向精神薬の意味論」より)

2016年4月5日

まずは精神科患者(あるいは患者予備軍)が、ある向精神薬を服用する根拠について考えてみたい。患者は悩み・苦しみを抱えた時点で直ちに精神科医の前に姿を現すわけではない。患者はまず精神科医に遇う前に、さまざまなことを考えている。今どのようなことで苦しんでいるか。この自分のもつ苦しみの原因は何か。この苦しみを解く方法はないものか。できることなら自ら環境へ働きかけることでなんとかならないものか。あるいは、精神科医などに会わないまでも、状態を変えうる物質(薬物とは限らない)が見つからないものか。また自分の今ある心身の苦しみに名前をつけるとするならどうなるか。本やインターネットで調べれば分かるだろうか。どうしても精神科医の援けを借りなくてはならないのなら、どのような医師を選べばいいか。これもまた本やインターネット、それに口コミが役立つだろうか、云々。

よって、精神科医のもとに来るまでに問題解決の方法がすでに講じられてしまっている場合もある。たとえば、患者が主体的にサプリメント(補助食品・薬品)をインターネットなどで買い求める場合である。医療者にはあまり知られていないか、あるいは意図的に無視されることが多いが、いまやサプリメントの市場は膨大なものである。もちろんサプリメント業界でも、薬事法での縛りがある。しかしそのぎりぎりのラインをついた巧みな言葉によって、患者の身体的コンプレックスを刺激し、欲求をくすぐるようなことが行われている。そしてそれらには事実上タブーはない。またそのサプリメント服用下の危険性もほとんど認識されていない状況である。つまり時代の多様なコンプレックスが集積しており、それらのコンプレックスを解消したいという欲望が噴出している場である。患者が精神科医に向精神薬の処方を求めてくる場合、こういったサプリメントで解消し得ない何かを解消することを求めている可能性を考慮しておく必要がある。

昔、イノセントでか弱い患者が身近な医師のもとを訪れ、そのご託宣にすがったようなことは、今の時代ほとんどないといっていい。患者は相当世間ずれ、情報ずれしている。精神科医の前にいる患者は、病気のこと・薬のこと・そしてその医師のことについて、かなりの前情報をつかみ、予見を立ててやってきている。そのことが、治療の援けになることも、あるいは妨げになることもあるだろうが、ともかくもそうなのである。

つまるところ、向精神薬といえど、患者は時代の流れからはぐれず、大衆的欲望を満たすための方便としか考えていない場合がある。すなわち向精神薬の服用根拠とは、より快適に心地よく生きるためという程度のものであったりする。もちろん信頼できる医師の推奨するものを素直に服用するということはあるだろう。しかし、医師の推奨といえど、さまざまな情報や口コミと同レベルのものとして考えられている可能性もあり、クールに相対化されているものと考えたほうがいいだろう。医師のパターナリズムが受容された時代は終わりつつある、とみていい。

一方、精神科医がある向精神薬を処方する根拠についても考えてみたい。個々の精神科医に“学問的”に根拠づけてあらかじめ付与される情報としては、精神薬理学と、臨床疫学に基づく薬物療法アルゴリズムなどがある。精神薬理学とは、動物実験や人体組織のミクロ的研究などを基礎とし、薬物が脳神経系にどう作用するかを問う自然科学である。現代西洋医学の申し子ともいえる内科医がSSRIをうつ病やパニック障害の患者に処方することが多くなったが、このようなことなど一昔前なら考えられなかったことである。これは精神科で扱ってきた疾患の一部が、“脳の内科学”において捉えられるようになった証しである。すなわちSSRIはこころなどにではなく脳に効く薬だと考えられるようになってきたということだろう。臨床疫学は人体機能をマス(mass)で捉えた統計学が基本となっている。一旦、個々の人体を捨象した上で、統計学的手続きから導き出したエビデンスというものを金科玉条のごとく扱っており、結果そのエビデンスは個々の人体の臨床に適応可能だとする考えである。薬物療法アルゴリズムは、臨床疫学を援用し、薬物処方という臨床行為を平準化し手順化したものといえよう。どちらも“学問的”な手段・作法としては重要であろう。しかし、この2つの方法論を用いるだけで、果たして向精神薬の十分な処方根拠を得ることが可能であろうか。これのみでは、服薬者である患者と投薬者である精神科医の主観があまりに抑圧されすぎていて、臨床の当事者の実感からかけはなれた抽象的な情報のみ行き交うことになりはしないだろうか。

そこで私は拙著『精神科のくすりを語ろう―患者からみた官能的評価ハンドブック』(日本評論社)の中で、<処方あるいは服用した薬物について、患者あるいは精神科医の五感を総動員して浮かび上がらせたもの(薬物の”色・味わい”といったもの)や、実際に使用してみた感触(薬効)、治療戦略における布置(他薬物との使い分け)といったもの>を指して「官能的評価」と命名することにし、それらの臨床における重要性を見直してみるよう提言した。私は先の2つと並んで、この「官能的評価」も薬物処方を行う上で欠かせぬものと考えている。「官能的評価」はとりわけ新しいものではない。たとえば、漢方などは「官能的評価」の歴史的集積によって根拠付けられている医療の代表格といえるだろう。患者の身体と薬物のマッチングによって発生してくる患者の主観表明である「官能的評価」の総体は、服薬・投薬体験の“博物学”とでも位置づけられるもので、人体というベースが歴史的に大きく変化しない限り、薬物治療文化を伝承するためにも実に重要な視点なのである。

ただ以上の3つの方法論からもたらされる情報は各々乖離していることが問題である。そのため個々の精神科医はそれらを個人のうちで斟酌し統合しなくてはならない。錯綜とした情報を“編集”する技術が問われるのが、今という時代なのである。

また精神科医が処方をおこなう根拠として最終的に重要なものが、医療業界で醸成され公認されるようになった<時代の病理>とでもいうべきものである。患者のうちに見られるこの<時代の病理>を修正・矯正することこそが治療である。すなわち治療とは、時代の“正義”を体現する行為ともいえる。ただこの<時代の病理>の公認は、いつも患者が時代の流れを嗅ぎ取ることより一歩遅れる。そのため、精神科医の治療行為は、患者からみるとアナクロニズムに支配されているようにも見えなくはない。精神科医からすれば、この遅れこそが、あとに述べる精神科医の「専門性」を担保するものともいえるのである。さらにいうなら、その治療は<時代の病理>を投影したものなどでは決してなく、普遍的正義を代弁したものと精神科医は考えたいものである。しかしここ数十年の薬物治療のモードを見返してみても、時流はやはり猫の目のように変遷しており、時代をまたぐ普遍的正義などほとんど存在しないことが分かる(その傍証については後述する)。また信念をもって時代の“正義”を体現しようと尽力しても、時代の推移によりいつなんどき魔女狩りに遭うやもしれぬという危うさからは逃れられないのである(インスリンショック療法やロボトミーはその時代、最先端の医療であったことを忘れてはならない)。

熊木徹夫(あいち熊木クリニック<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>:TEL: 0561-75-5707: https://www.dr-kumaki.net/ )

<※参考>

「薬物のばらまき」はなぜ起こるのか  ~<身体感覚>を導きの糸として~

「らしさ」の覚知とは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)


臨床現場、混乱の原因となるものは(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

初診時における精神活動(論文「「らしさ」の覚知 ~診断強迫の超克~」より)

治療戦略的プラセボ ~精神科薬物療法の目指す未来~

向精神薬は<時代の病理>を反映する(論文「向精神薬の意味論」より)

「専門性」をめぐるジレンマ(論文「向精神薬の意味論」より)