私の前に屹立した「初めての大人の精神科医」 ~中里均先生追悼~

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(※ 2018.3.精神科医の中里均先生が亡くなられた。
生前一方ならぬお世話になったにもかかわらず、先生にお別れが言えなかった。
先程参加した名古屋市立大学精神科同門会で、その報に触れた次第。
遅きに失したが、ここに哀悼の意を表します)

中里均先生に最初にお会いしたのは、私の豊橋市民病院赴任に際してご挨拶の時だった。
私は先に、名古屋市立大学医学部卒後、名古屋市立大学精神科医局に入局し、2年間の研修を受けていた。
豊橋市民病院は、精神科専門医としての初めての赴任先となる。
生まれ故郷の京都、大学生活を送った名古屋、豊橋は私にとって第三の土地になる。
当時の私は、臨床経験は絶対的に不足していたものの、気負いばかりあって、生意気なガキだったと思う。
そんな私を、中里先生は暖かく迎えてくださった。

初対面の折、先生との間で大層盛り上がった話題がある。
それは、中井久夫先生について。
中井先生は、精神科医であれば知らぬ者のいない高名な精神科医、当時においても、まさに「生ける伝説」であった。

私は、高3の時、本屋で偶然中井先生の『精神科治療の覚書』(日本評論社)を手に取った。
そして、その本に導かれるように、精神科医になった。

この『精神科治療の覚書』は、名著の誉れ高く、数十年の時を経て、今も多くの精神科医に読みつがれている。
本書の巻末に、滝川一廣先生・向井巧先生とともに、中里均先生の名前が登場するのだ。

上記3先生は、中井先生が名古屋市立大学に助教授として赴任された時に、ちょうど精神科に入局されたばかりのフレッシュなドクターだったということだが、本書の成り立ちに深く関与しているという。
(中井先生が、この3先生を前に、こころゆくまま精神科治療の奥義を語り、その内容に賛同したり批評を加えたりしたのだという)

そんないきさつから、中井先生は言うに及ばず、この3先生も、私の中では眩きヒーローのような存在だった。

かつてその名を聞き及んでいたヒーローが、眼前にいる。
とても不思議な気持ちで、本書のことについて、中里先生にいろいろ尋ねてみた。
すると中里先生は相好を崩され、親切に答えたあとで、「あの時代は本当に良かった」と遠い目をして呟かれるのだった。

生まれて初めての症例提示を、大橋クリニックで、中井先生にさせていただいた旨をお伝えすると、「それはすごく幸運なことだったね」と嬉しそうにおっしゃった。

そして、豊橋市民病院での私の臨床が始まった。

その後丸5年間、中里先生と数え切れぬほどたくさんの言葉を交わしたのだが、不思議とお互いの患者さんについて、ほとんど何も伝えあったことがない。
先生がどのような臨床をされていたのか、具体的なことはほとんど聞かされていないし、私の臨床のあれこれもご存知ないはずだ。

そんなわけで、私の不具合はいっぱいあったはずだが、一つの苦言も呈せられたことがない。

それは、本当に驚くほどだった。
先生は、この若造を好きなように泳がせてくれた。
おそらくそれは、私を信頼しているからというより、先生の流儀だったのだろう。
何かを手取り足取り教えるようなことはせず、ただ少し離れたところから見守るということだ。

だが時に、本当に困ることもある。
そのような場合、症例の要点だけつまみ上げ、先生に投げかける。
(先生はそのようなアプローチを望まれていた)

すると、先生は一言、謎めいたことをおっしゃる。
それは、アドバイスというよりアフォリズム(箴言)のようなものだった。
私はその謎を解析するように、治療を進めていくのだ。

先生はいつもこうだ。
贅言を発することを、極度に嫌う。
そして常に物事の本質を突き詰める。
「寸鉄人を刺す」とは、このことを言うのだろう。

それゆえか、晩年先生が書き継がれたブログには、最期に至るまで、各所に俳句が刻まれている。
●「院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)」

私が午前の外来を終える頃、先生はいつも医局の片隅で紫煙をくゆらせていた。
いつも深いため息とともに、煙をフゥーと吐くのだった。

何か不機嫌そうで、何か寂しそう。
きっと言葉にできない何かを溜めておられるのだろうと察した。

日本酒がお好きで、ゆるゆる飲んでおられるだが、いつの間にか4-5合まで杯を重ねることが多かった。
「お酌は止めてくれ。ペースが分からなくなるから。僕はいつも3合と決めてるんだ」と言いながら。

いくら飲んでも、決して感情を乱されることも、酔いつぶれることもない。
先生の書斎兼音楽ホールで、ジャズを聴きながら瞑目する、本当に静かな酒だった。

先生は大変な食通であった。
とりわけ寿司がお好きで、豊橋の心寿司に通い詰めていらっしゃった。
たまにお誘いを受けたが、味の分からない私にも違いが分かるほどうまかった。

一緒に行った大槻一行先生は、「私達には分不相応ですね」と恐縮され、私も同感だった。
こんなうまいものを食っていると、まずいものが食えなくなってかえって不幸だ、というのが我々の言い分。
しかし、先生は違っていた。

一頃、大槻先生のマンションにおいて二人で毎晩のように行っていた「闇鍋」(毎回何を入れるか分からず、味の再現性が一切見込めないような、そんな鍋)に先生をお誘いした。
誘われたことには満更でもないご様子だったが、鍋を一口すすると顔をしかめ、たしなめられた。
「肉と魚を一緒にしてはいけない。
精神科医たるもの、こんなまずいものを食べていてはいけない」
これは冗談ではなく、本気のご様子だった。

ある時、ひょんなことから、私が学会発表をすることになった。
それは先生が何気なく「申し込みしておいたから」と言われたからだった。

それは「心気随想」というタイトルで、その名の通り、学術的なものではなかった。
だが、先生には過分な評価を頂戴した。
そして「君は文章を書けるのだから、もっと書かなくてはならない」と言われ、
上記タイトルの論文も物した。

後にこれが、処女作『精神科医になる』(中公新書)の一部となり、さらにその後7つの本を出すことになったのだから、分からないものだ。
(ちなみのこの本の冒頭に出てくる「精神科薬物は、構造に効く」という一言は、中里先生の発したものだ)

最初にトンと肩を押していただいたのは先生であり、今でも恩義を感じている。

(初期の頃、自著論文について先生に査読を受けた。
それはそれは厳しいもので、うんざりするほど、朱筆が入れられた。
そこには、文を書くということは生易しいものではない、という先生の思いが滲んでいたように思う。
論文執筆の作法を学んだのは先生からであり、今も時々筆に迷いが生じたとき、先生の教えを思い出す)

晩年は、肝硬変や口腔内のがんなど、いくつもの病を得られ、苦しんでおられた。
会うたびにやつれていかれる印象で、ずっとご容体が心配だった。

ここ10年、私と同じ開業精神科医であられた。
「もっと早く開業すれば良かった。臨床が楽しい。ブログについて患者さんとお話することも」
最後にお会いした時、そうおっしゃっていた。

自分にも他人にも厳しい先生だと思っていたが、本当はすこぶる照れ屋だった。
先生の優しさは、じんわり後から沁みてくる。

私の前に屹立した「初めての大人の精神科医」であり、精神科臨床の厳しさ、そして張り合いを、身をもって教えてくれた人だった。
先生の目指された境地を引き継いで目指すことを誓い、合掌。

熊木徹夫
(あいち熊木クリニック
<愛知県日進市(名古屋市名東区隣)。心療内科・精神科・漢方外来>
:TEL: 0561-75-5707:  www.dr-kumaki.net/ )

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